昨年の9月に、国立国際美術館の友の会に入った。
主な動機はもちろん見たい特別展がいくつかあって、それらの鑑賞料金で会費の元が取れるというかむしろお得になるからだけど、あと2つ考えていたことがあった。
1つは自分の身近な場所でやっている展覧会にもっと興味を向けてみようということ。
今住んでいる家から最も近い(交通費的な意味で)国立館。容易に足を運べる場所に、もっとコミットしてみたいという気持ちがあった。
今までは興味のあるかどうかで、展覧会を見にあちこち出かけていたけれど、逆に場所を定めて私のホームですといえるような美術館をつくってみよう作戦。
もう1つはアートの見方をどうにかこうにかしたいということ。
これはまだうまく言えないんだけど、今まで「作品を見て自分がどう思うか」でアートを見てきて、それだけだと足りないと感じるようになったからかなあ。
作品を見たその時に心が動かされるかどうか、それが鑑賞の基点になるのは間違いないんだけど、見方の幅を広げるには見巧者の手を借りたい。
鑑賞について判断をゆだねるからには、それは信頼できる上に(たぶん)相性のいいキュレーターさんがいるところがいい。そういうことをつらつら考えての選択だった。
そういうわけで9月から2月の間に見たのは「ウィーン・モダン」、「ジャコメッティとII」、「インポッシブル・アーキテクチャー」。
余暇の都合で思ったより行ってなかったが、どれも印象深いものだった。簡単に印象をメモしておく。
「ウィーン・モダン」
同じ年に京都国立近代美術館で「世紀末ウィーンのグラフィック」展も見ていて、そちらがウィーン分離派以降のデザイン多めの展示だったのに対して、こちらは都市の近代化に伴う社会や思想の変化が捉えられていて、それから当時のモノの展示も多く、合わせてでだいぶ19世紀周辺のウィーンの文化については分かった気がする。
模型と映像で当時の変化していく街並みが見られる展示が良かった。
オットー・ヴァーグナーの設計した建築の模型、コロマン・モーザーによるフレーゲ姉妹のファッションサロンの家具などの設い、ヨーゼフ・ホフマンがデザインしたウィーン工房の品々…どれもこれも本当によかった。
絵画ではハンス・マカルトにもう夢中で、何度も行ったりきたりして眺めた。
あと印象に残ったのはシューベルトの夜会の絵。
音楽の都ウィーンで、シューベルトが私的なサロンで演奏する場面と聞いたら、豪華な部屋でピアノを中心に豪華な椅子に優雅に座った貴族か富裕層が取り巻いていて…とふんわり思い浮かべるけれど、実際にその場面が描かれた絵画を見ると、観客がライブハウスかというくらいピアノの周りに立ったまま密集していて、天才の演奏を耳にしたい人々の熱狂が伝わってくる。
音楽には疎いのでシューベルトと他の著名なクラッシックの作曲家とあまり区別してはいなかったが、貴族の音楽から市民の音楽への過渡期の作曲家なんだというのが印象的だった。
家具や食器など当時の生活用品の展示があり、軍用トラベルセットは銀製でカップに塩コショウ入れ、テーブルスプーンにティースプーン、ナイフにフォークと揃っていて豪華…となった。
ショップを見たらロブマイヤーのホフマンブラックがあってうおお○万円のワイングラス買えませんけど目の保養ですね…と思いつつ、丈夫そうなホフマンコップを買った。あとモダンな市松せんべい。
ハンス・マカルトの何かがあれば絶対に買ったのに見当たらなくてとても残念。
「ジャコメッティとII」
アルベルト・ジャコメッティの「ヤナイハラ」が国立国際美術館に収蔵された記念のコレクション特集展示、その2。その1は見逃してしまった。
ジャコメッティの作品を初めて見たときのことは覚えている。中学生のとき、家族旅行で行った箱根の彫刻の森美術館でだった。
展示室に入ろうとすると、入り口に印刷されたたくさんの写真があり、まずそれに釘付けになった。写真によって少しずつ形の違う「ヤナイハラ」、それが作られたアトリエの写真。ジャコメッティ本人も写っている。モノクロの写真は幻想味が強く、謎めいた映画の一場面のようでとても惹かれた。
展示室の一角に参考図書のコーナーがあり、座って置いてある本の栞が挟んであるページを少し読んでみた。
そこにはフランスに留学していた哲学者の矢内原伊作がジャコメッティのモデルとなったこと、ジャコメッティがヤナイハラの肖像を何度も作り直したことが書かれていて、それで写真の像が少しずつ違って見えることに得心がいった。
特集展示ではコミュニケーションによって生まれるアートというテーマがあり、いくつか印象に残った作品があった。
アラヤー・ラートチャムルーンスックの映像作品、「ミレーの《落穂拾い》とタイの村人たち」。
著名な芸術作品の複製を、タイの農家の女性たちが5、6人くらい、外で、川辺で鑑賞している。
彼女たちは後ろ姿しか写っていない。絵を見た印象を自由におしゃべりしている。
今はこんなきつい労働はしない、と言っている。固くなった手足と。おしゃべりは次第に脱線していく。村のお祭りの話になったり、誰々の踊りがうまいんだ、という話になっていったり。
見ていて、絵の見方というか、絵のモデルとなった落ち穂拾いをしている女性たちも、仕事が終わればこんなふうに他愛ないおしゃべりをしていたんじゃないかという気がしてくる。絵に描かれた人物が人間性を取り戻してくるような経験。
もうひとつは加藤翼の「言葉が通じない」
見ず知らずの日本人と韓国人の青年が、なんだかいい顔をして写真に写っている。映像を見ていると、言葉の通じない2人がどこかの島で、片方がもう1人を肩車して旗を地面に打ち立てるような謎の共同作業をしている。
映像を見ていると加藤が全然わかんないなこりゃとか言ってるのに対して韓国の青年の言葉は字幕がついているからなんだか哲学的に見えてくるなこりゃ。
なんだかこれがとても印象的だった。
「インポッシブル・アーキテクチャー」
アンビルト、つまり実現していない建築の展覧会。タイトルのインポッシブル、不可能なという意味の言葉に線が引かれている。示唆的。
展示はカジミール・マレーヴィチからはじまる。ロシア・アヴァンギャルドをかじったならば避けて通れない名前。
タトリンの「第3インターナショナル記念塔」の映像は何周でも見ていられた。
ブルーノ・タウトの「生駒山嶺小都市計画」は、他の実現不可能のものに比べたらぜんぜん可能なものに見えたので、そこはがんばれよ近鉄……と思ってしまう。
メタボリズム関連が色々見られたのがよかった。個人的には住みたくないなと思ってしまったけれど。
黒川紀章の中銀カプセルタワービルに住んでいる人たちの暮らしをインタビューするテレビ番組をたまたま見たらかなり不便そうに見えたがあそこなかなか人気があるらしい。
あ、そういえば同じく黒川紀章の国立民族学博物館の建築も考え方はメタボリズムをひいてるのかな、とか。
安藤忠雄の中之島アーバンエッグは図で見ると違和感があるが、今ある安藤建築、直島の地中美術館とかベネッセハウス、大山崎山荘の地中館のことを考えると、思想的に続いているんだなと納得するものがあった。
それから荒川修作の大きな模型があって興奮した。
大学生のときにロシア・アヴァンギャルドと荒川修作の養老天命反転地に大きな影響を受けていたので、当時に引き戻されたような時間だったな。
あと印象的だったのはコンスタンのニュー・バビロン。なんかこういうところを永遠に旅するSFのなにか…。
それから藤本壮介のベトンハラ・ウォーターフロントセンター設計案がよかった。好き。
ザハ・ハディドの新国立競技場のあたりはめちゃ力が入っていた。そういう熱さ、問いかけもまたひとつの役割よな……。

